2009年06月20日

塩基対における水素結合

DNAの場合、アデニン (A) とチミン (T)、グアニン (G) とシトシン (C) は水素結合を形成する。AT対が2つの水素結合を形成するのに対し、GC対は3つの水素結合を形成する。そのため、GC含有量が大きい領域では安定性が高まる。略号の A + T が Weak の頭文字W、G + C が Strong の頭文字Sとなっているわけである。

一方、RNAは、アデニン (A) とウラシル (U)、グアニン (G) とシトシン (C) で塩基対を形成する。塩基としてチミンではなくウラシルで構成されるが、ウラシルもチミン同様ピリミジン骨格であり、アデニンと塩基対を形成する。ウラシルは、チミンのメチル基が水素基に置換された塩基である。
サンバ (ブラジル)
土木工学
ラグビー
早食い・大食い
ボウリング
融資
パルクール
人材派遣
綱引き
株式
宮沢賢治集
みんなの税金
高知の湯めぐり
世界歴史
葬祭マナー
麦茶百科
四季の祭り
秋田の情報
リス情報
アイス工房

比較的広範囲で使われている略号を示した。分野によってはこれと異なった略号を用いることもある(修飾塩基など)。また、塩基とヌクレオシドを区別したい場合は三文字の略号を使う場合もある。

2009年06月02日

村落(そんらく)とは、人口や家屋の密度が小さく

第一次産業に従事する人の割合が高い集落を指す。単に村とも呼ばれる。対義語は都市。

地理学的概念である集落に対して、村落は、人間関係の社会的・文化的な統合状態に基づく社会学的概念である。広義では地縁集団にも含まれるが、村落は、地縁集団に比べて、人間関係の社会的、文化的な自律的統合単位でなければならず、政治的な単位として形成されている地域社会の一種として位置づけられる。

よく似た概念で、より通俗的な用語として田舎がある。

行政的な区分と形態的な区分で、英語または文化人類学では、villageとhamletとして区分する。hamletが、自然に形成された本来の村落を指す。
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産業別分類 [編集]
農村:住民が主として農業に従事している村落。日本の村落の大半が農村である。
漁村:住民が主として漁業に従事している村落。日本では、大半が漁業の他に農業も行う半農半漁村であり、漁業だけを行う純漁村は少ない。
山村:山間にある村落。住民は林業と農業に従事している事が多い。農村と併せて農山村という。
例:戸隠、春野、上宝、荘川、十津川、本宮、板井原。
行政文書等で一括して表現する場合は「農山漁村」と呼ぶ。

形状別分類 [編集]
集村
家屋が数十軒から数百軒集まっている村落。
塊村
家屋が不規則に塊状に分布している集落。西南日本でよく見られる。
列村
家屋が自然堤防や山麓の湧水線に沿って、列状に分布している村落。
例:三依、栄村、井川、水窪。
路村
家屋が道路に沿って列状に分布している村落。開拓地などに見られる。
例:泰阜、里美。
街村:
家屋や商店が、道路に沿って列状に分布している村落。路村よりも道路への依存度が高い。
例:矢祭、広野。
円村・環村:
中央の円形・楕円形の広場を取り囲んで、家屋が環状に分布している村落。ヨーロッパの中世の開拓集落でよく見られる。
散村・散居村
家屋が一軒ずつ分散している村落。北陸地方の砺波平野、山陰の出雲平野、北海道の屯田兵の開拓地、アメリカやカナダのタウンシップ制による村落が知られている。成立の背景はそれ違うが、政策によって成立した所が多い。

2009年04月30日

渤海では唐制の16衛

渤海では唐制の16衛に倣い左右猛賁、左右熊衛、左右羆衛、南左右衛、北左右衛の10衛が中央に設けられていた。また地方には府兵制が確立されていたと考えられている。しかし渤海後期になると、府兵制が次第に崩壊し、左右の神策軍、左右三軍が設置された。これらは唐の北衙六軍との関連が認められ、渤海王室が設置した常備軍であった。

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渤海の司法制度に関しては、唐の文宗の時代に大彝震の治世には法律の運用面で国内が安定していた事を示す史料があり、渤海は法律面でも整備が進んでいた事の傍証となっている。律令格式は他の統治方式同様に唐制を模倣したものと考えられている。

司法機関としては中正台、礼部、大理寺が任務に当った。

中正台
渤海最高の監察機関であり、長官の大中正は官民の監督の他、王室内部の粛清や、礼部、大理寺と重要案件を審議する権限を有していた。
礼部
渤海最高の司法機関であり、徒隷、勾覆、関禁の政令を職責としていた。
大理寺
渤海最高の裁判機関であり、訴訟を担当すると共に、礼部とともに裁判員の人選を行っていた。

2009年04月14日

王 巡(おう じゅん)

王 巡(おう じゅん、? - 23年)は、中国の新代の武将。

王莽配下の武将である。始建国2年(10年)、王莽が立国将軍孫建に命じ12将軍を率いて匈奴を討伐させると、王巡も震狄将軍として、厭難将軍陳欽とともに雲中郡から出撃している。その後も陳欽とともに雲中郡の葛邪塞に駐屯し、しばしば進攻してくる匈奴と交戦した。

しばらくすると、王巡は三輔に召喚され、車騎将軍に任命されている。地皇4年(23年)正月、納言将軍荘尤、秩宗将軍陳茂、左隊大夫王呉とともに、南陽の反新軍(のち更始帝を擁立)を討伐するよう王莽から命じられた。

同年10月、更始帝配下の軍が長安を攻撃してくると、王巡は大司馬王邑らとともに、部隊を率いて抗戦したが、ついに城内への進入を許してしまう。王巡は、漸台にいた王莽を護衛し、迫り来る敵軍を懸命に食い止めたが、ついに白兵戦の中で戦死した。

バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

2009年03月31日

稲妻雷五郎

稲妻雷五郎(いなづま らいごろう、享和2年(1802年) - 明治10年(1877年)3月29日)は大相撲の第7代横綱。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

人物 [編集]
常陸国阿波崎村(現茨城県稲敷市)出身。生年には寛政7年(1795年)説もある。本名は根本才助。身長188cm、体重145kg。

文政4年(1821年)2月幕下で槇ノ嶌の四股名で初土俵。同7年(1824年)10月、稲妻に改名し入幕すると、

7年10月 西前頭4枚目 7勝1預2休
8年1月 西小結 5勝2敗3休
8年10月 西小結 8勝1敗1休
9年1月 西関脇 6勝1敗1分2休
9年10月 西関脇 7勝1分1預1休
10年3月 西関脇 5勝2休
と好成績を続けて大関に上る。平幕1場所、小結2場所、関脇3場所での大関昇進は、看板大関でなく平幕から取っての実力大関としては、異例の早さだった。同じ雲州力士の先人雷電爲右エ門をもしのぐ。

文政11年(1828年)7月、京都五条家から横綱免許。これをめぐって吉田司家と五条家の間で紛糾したが、13年将軍徳川家斉の上覧相撲に際して阿武松緑之助とともに横綱土俵入りを披露する必要が生じ、吉田司家側が折れる形で決着。13年9月に司家免許も受けた。のち、引退後の安政6年(1859年)に神祇管領から「ゆうだすき」という白い麻綱を送られ、これも横綱の一種と解して三つの横綱免許を持つ唯一の力士とする見方もある。

阿武松とよく競いあって(稲妻の4勝5敗1分1預)、文政から天保の相撲人気を支えた。川柳に、

雷電と稲妻雲の抱えなり
稲妻はもう雷電になる下地
などと詠まれ、かつての雲州力士の強豪雷電と比較されるほどだったことがわかる。怪力で知られ、銭のたっぷり詰まった火鉢を片手で持ち上げ、煙管の火を着けるほどだったといわれる(エピソードの項参照)。生涯成績は、幕内通算25場所130勝13敗14分3預1無勝負73休、勝率9割9厘、優勝相当成績12回。古今十傑(谷風、小野川、雷電、稲妻、陣幕、梅ヶ谷(初代)、常陸山、太刀山、栃木山、双葉山)の一人とされる。

現役を引退後は雲州相撲頭取をつとめたが、藩財政緊縮の動きの中で大きな働きはなくて終わった。

また、力士の粗暴を戒め、精神の鍛錬を進めた「相撲訓」を著し、 「稲妻の去り行く空や秋の風」という辞世を残すほどの風流人であったといわれる。

タレントの山咲トオルは稲妻雷五郎の子孫(玄孫)である。

エピソード [編集]
あるとき青山の質屋が、普通の人では両手でも持ち上がらない唐金製の火鉢の底に天保銭10貫(100枚)を隠して埋めておいた。今日ばかりはいつものようにはいくまいという家人の視線をよそに、稲妻が火鉢を左手に取り、右手のキセルに火を吸い付ける様子は、普通人がタバコ盆を扱うのと変わりがなかった。その怪力に驚嘆した質屋は、その天保銭入り火鉢を稲妻に贈ったという。

五条家から横綱を許されたとき宮中に召され、仁孝天皇が御簾のうちからご覧になったが、頂戴した清酒4斗樽2駄(200kg)を両手に下げたまま静かに後ずさりして階を降りた。

2009年03月16日

保元の乱、平治の乱

保元元年(1156年)の保元の乱では池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だったことから、清盛の立場は難しいものであったが一門の結束につとめ、後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。信西(藤原通憲)と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・経宗・惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝・源重成・源季実・源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握した。これにより、清盛は武家政権樹立の礎を築くにいたったのである。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

全盛期
清盛は二条天皇の乳父、室の時子は乳母となり天皇の後見役をつとめて検非違使別当・中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。応保元年(1161年)9月後白河上皇と平滋子の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠・教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・藤原信隆を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の皇居に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条天皇親政派の藤原経宗が帰京を許され、6月には時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・藤原基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)蓮華王院を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)重盛を参議に任じて平氏への依存を深めるが、7月28日崩御した。

後継者の六条天皇は幼少であり基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。9月、時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。永万2年(1166年)7月26日摂政・氏長者の基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・基房が摂政となる。基房は後白河上皇の近臣として信頼が厚く、基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば平氏にとって大打撃となる。清盛は藤原邦綱の助言により、殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から引退し、嫡子・重盛は仁安2年5月宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。
仁安3年(1168年)清盛は病に倒れ、出家する。原因は「寸白(すびゃく)」(寄生虫の病)だったとされる。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。病から回復した清盛は福原に別荘を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。嘉応元年(1169年)後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらざれば人にあらず」といわしめた。


2009年03月01日

アンフォーラ

アイノス
アパス
アンフォーラ
イロシャ
ウクタン
ウチク
ウビクンケ
エグレト
エパン
エルトン
オーロラ
オグーサ
オクル
オグルー
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

オジュン
オルラ
ギーゼラー
帰郷
クセルクセス
グラハト
グリーツ
クレストの星
コーンラ
サピスカヤ
サラロト
ジュングラ
スルフ
タウタ
ダシャル
タフン
医療惑星。
ダルショング
ダルナル
テルカレン
ドゥルハム
トラムプ
イルト族が住んでいたが、未知の種族が行った実験により核火災が発生し、恒星に突入して消滅した。グッキーの故郷。
ナエスドニク
ナ=ティル
ニュートン
ニュテット
ノウルセン
ノーホェア
アラスが基地を置いていた惑星。「銀河一の医療技術を持つ種族」の名を守るために、治療できない患者たちを島流しにしていた。
ノトリン
ハーサグ
ファルランド
ファロング
フォシル
プラツァ・デ・ブラヴォス
ベイネルト
ペムブローク
ボルジャレフ
ミュイ
メタ
メンツ・アルト・コルヴィシュ
モダル
モナースポイント
Ustrac
正式名称は、ユナイテッド・スターズ・トレーニング・センター。USO訓練センターがある。第185巻。
ラヴリー
ルートヴェルト
ルールス
レフォル
レヤン
ロアノケ
ロゲル
ワシュン
ダラク
ワホウィッチ
ワムプス
ワンダラー
精神知性体 "それ" が住む人工惑星。直径600メートルの皿状の大地をエネルギーバリアによって覆われ、"それ" の意志によって宇宙を自由に移動することができる。

実在する星団・星域
ヘルクレス座球状星団
別名M13。アルコン帝国の中心世界。第19巻。
恒星41=B=1847ArqH星系
サオス
星系4186-4-162
アルコン星系
アルコンI
アルコンII
アルコンIII
ナート
ナートル
ムトラル
ヴォガ星系
ツァリト
ケスナル星系
アラロン
アラスの本拠地。医療惑星。
ゲラ星系
ゲラル
ゴノム星系
ゴム
ラロス
スナルフ星系
スナルフォト
タトレル星系
ホヌル
フォルト星系
ソルテン
モーフ星系
モル星系
ラトン星系
ツグラン
ルスマ星系
アルヘツ
その他の惑星
ゴンツァ
シリコ
シリコV
スマト
オリオン渦状肢
太陽系帝国の主要星系のほとんどが存在する。
銀河中枢部
恒星六角形
「島の王たち」が建造した恒星転送機。6つのほぼ同じ大きさの恒星が正六角形に並んでいる。第100巻。
ブルーの星系
スフィンクス(ドロラー)
アコン帝国の首都星。
ラムセス
プレアデス星団
昴(すばる)のこと。散開星団。第100巻。
プレセペ星団

2009年02月10日

日本の古代道路

日本の古代道路(にほんのこだいどうろ)は、古代日本の中央政府が飛鳥時代から平安時代前期にかけて計画的に整備・建設した道路または道路網を指す。地方では6m~12m、都の周囲では24m~42mに及ぶ広い幅員を持ち、また、路線形状が直線的である(時に直線が数十kmにわたる)という特徴を持つ。当時の中国(隋・唐)における道路制度の強い影響が想定されている。直線道路は、まず7世紀初頭の奈良盆地で建設されはじめ、7世紀中期ごろに全国的な整備が進んでいった。そして、8世紀末~9世紀初頭(平安時代初頭)の行政改革により次第に衰退し始め、10世紀末~11世紀初頭に廃絶した。
いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

日本における道路建設が始まったのは、5世紀だとする記録(日本書紀)もあるが、詳しくは判っておらず、疑問視する意見が多い。確実なのは、6世紀の奈良盆地においてであろうと考えられている。ただ、この頃に建設された道路は、広い幅員、直線的な形状といった特徴はまだ備えていなかった。

直線的な道路が計画的に整備されたのは、7世紀からだとされている。奈良盆地では、7世紀初頭に宮都が置かれていた飛鳥へ向かう直線道路が建設され、その後ほどなくして、飛鳥から奈良盆地を北上する直線道路が、平行して3本(上ツ道、中ツ道、下ツ道)作られるとともに、それに直交する直線道路が河内方面へ向かって作られた(横大路)。また、河内平野では京からの直線道路が難波に通じており(難波大道)、これら2つの大路を結ぶのが日本最古の官道竹内街道である。これらの道路は、36m~42mという非常に広い幅員を持っていた。こうした直線道路の出現の背景には、7世紀初頭に派遣された遣隋使により、隋の広大な直線道路に関する情報がもたらされた影響があるのだろうと考えられている。

大化の改新により646年正月に出された改新の詔では、駅伝制を布く旨の記述があり、これを契機として計画的な直線道路網が全国的に整備され始めたのではないかとする説がある。改新の詔については、その信憑性を巡って根強い論争が続いているが、発掘調査などによれば、少なくとも大化の改新直後には畿内及び山陽道で直線的な駅路や駅家の整備が行われ、680年頃までには九州(西海道)北部から関東地方(東海道)に至るまでの広範囲にわたって整備が進んだようである。

日本の駅伝制は、前述したとおり、(真偽に関する議論はあるが)大化の改新の詔において初めて定められ、8世紀に制定・施行された律令において詳細な規定がおかれた。律令の駅伝制は、駅路と伝路から構成されていた。

駅路は、中央と地方との情報連絡を目的とした路線で、各地方拠点を最短経路で直線的に結んでおり、約16kmごとに駅家が置かれていた。律令の地方制度は五畿七道といい、中央である五畿と地方である七道から成っていたが、七道のそれぞれに駅路が引かれた。駅路はその重要度から、大路・中路・小路に区分され、当時、国内最重要路線だった中央と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部が大路、中央と東国を結ぶ東海道・東山道が中路、それ以外が小路とされていた。駅家に置く馬(駅馬という)は、大路で20疋、中路で10疋、小路で5疋と定められており、使者が駅馬を利用するには、駅鈴が交付されている必要があった。

伝路は、中央から地方への使者を送迎することを目的としており、郡ごとに伝馬が5疋置かれる規定となっていた。伝路は各地域の拠点である郡家を結んでいたため、地方間の情報伝達も担っていたと考えられている。

このように、駅路と伝路は別々に整備されていたが、路線が重複する区間では、駅路が伝路を兼ねることもあったようである。駅路は、重要な情報をいち早く中央-地方の間で伝達することを主目的としていたため、路線は直線的な形状を示し、旧来の集落・拠点とは無関係に路線が通り、道路幅も9m~12m(場所によっては20m)と広く、地域間を結ぶハイウェイとしての性格を色濃く持っていた。対して、伝路は旧来の地域拠点である郡家間を結ぶ地域道路としての性格が強い。伝路は以前からの自然発生的なルートなどが改良されて、整備されたと見られており、道路幅が6m前後であることが多い。両者の関係は、現代日本における高速道路と在来道路との関係に類似しているとの指摘もある。実際に、古代駅路と高速道路の設定ルートや、駅家とインターチェンジの設定位置が、ほぼ同一となっている事例も多く見られる。

奈良時代最末期から平安時代初期にかけて、行政改革が精力的に行われたが、駅伝制においても駅家や駅馬、伝馬の削減などが実施され、伝路は次第に駅路へ統合されていくこととなった。ただし、地域の実情と無関係に設置された駅路は次第に利用されることが少なくなり、従来の伝路を駅路として取り扱うことが多くなった。これに伴い、従来の駅路は廃絶していき、存続したとしても6m幅に狭められることが多かった(広い幅員の道路を維持管理することには大きな負担が伴うからである)。

10世紀前期に編纂された延喜式には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。しかし、駅伝制は急速に衰退していき、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。

形状
広い幅員と長大な直線形状を示す古代道路は、特に飛鳥時代~奈良時代に建設された駅路に多く、これを前期駅路という。前期駅路は、多くの場合9m~12m、畿内に近い地域では20mの道路幅をもち、平野部においては直線形状が数十kmに及ぶこともあった。丘陵地帯においても、斜面を切削し、谷間を埋め立て、直線形状を保つよう設計されていた。また、駅路の両側には2~4mの側溝が設けられた。側溝は駅路とその周囲を区分するとともに、路面上の排水などの役割があったと考えられている。

伝路は、旧来からの交通路が改良されることが多かったが、場所によっては駅路と同様に直線形状を示すこともあった。道路幅は、発掘調査によれば6mであるケースが多いが、必ずしも規格が設定されていた訳ではなさそうである。また、平安時代に入ると駅路の道路幅が伝路と同じく6mに狭められ、これを後期駅路という。後期駅路では、前期駅路の路線が踏襲されるのが一般的だったが、異なる路線が設定されたり伝路を駅路とする例もあった。

発掘された駅路は、中央部がわずかに窪んでいることが多い。これは、往来する人馬に踏み固められたものと見られる。窪んでいることにより、おそらく道路中央には水たまりができて、往来に支障を来すだけでなく、道路の維持管理にも多大な労力を要していたと考えられる。また、路面には轍と思われる跡も見つかっている。以前は、古代日本で車が用いられることはあまり想定されていなかったが、発掘結果からは、かなり頻繁に車が使用されていた可能性を指摘する意見もある。

道路の建設に関することは、ほとんど判っていない。建設には非常に厖大な労働力を必要としたはずであるが、労働力をどのように調達したのか、労働力を賄う費用は誰が負担したのか、などは史料がほとんどないこともあって判明していない。また、一定の幅員で長大な直線形状を持つ道路を、つくる技術についても判っていない。おそらく、中国の測量技術・土木技術がもたらされたと考えられるが、詳細は不明である。中国から技術者が帰化したのか、日本人が中国の技術を学んだのかも判らない。どのような工法により、道路が建設されたかも明らかとなっていない。

性格
駅路は、中央と地方間の情報伝達のためのハイウェイとして位置づけられていたが、その目的だけとしては、幅員が広すぎるという問題がある。広い幅員で直線的な道路には、いくつかの性格が与えられていたと見られている。

一つは、外国の賓客に見せるためのデモンストレーションだったとする見方である。外国からの使者が特に往来する山陽道は大路とされ、他の駅路より広い道路幅を持つとともに、多くの駅馬と瓦葺きの駅家を備えていた。このように国威を外国に示すための役割も負っていたのではないかと考えられている。

しかし、全ての駅路を外国使節が通過した訳ではない。そこで地域の豪族・住民らへのデモンストレーションだったとする見方もある。地域の経済力・技術力では建設し得ない規模の道路の存在が、中央政府の強大な権威を誇示する役割を担っていたとしている。

また、軍用道路としての性格を唱える見方もある。世界各地の古代道路を見ると、軍事的な性格を持つものが多く、日本の古代道路もその例外ではないとする。また、律令において、駅伝制は兵部省の所管となっており、飛鳥時代から奈良時代にかけて行われた軍事活動のために駅路などが整備された可能性もある。

古代道路は、地域計画の基準線となることもあった。各平野部での条里が駅路を基準に設定されていたり、駅路が国境となる例もあった(摂津・河内・和泉国境、または筑前・筑後国境)。国府や国分寺などの位置関係が駅路を基準として決定されたと思われる事例も多くあった。

路線の復元
古代道路を復元するための基礎史料として、延喜式が挙げられる。延喜式には、駅路ごとの各駅名が記載されており、駅家の所在地を推定することができる。駅家は当然、駅路に沿っていたので、駅家の推定地を結ぶルートから大まかな駅路を推測することができる。その他、史書(六国史など)に駅伝制に関する記事が残されており、それを元にルートを大まかに復元することも可能である。

地名が、路線復元に役立つこともある。古代道路そのものに由来する可能性がある地名としては、大道(だいどう)、横大路、車路(くるまじ)、作道(つくりみち)、立石、太政官道、勅使道、仙道(せんどう)、縄手(なわて)などがある。駅家に由来する可能性がある地名には馬屋(うまや)、馬込(まごめ)などがある。これらが必ずしも古代道路の痕跡を示すものではないが、路線を復元する上で、非常に重要な手がかりの一つである。

行政の境界が古代道路の跡であることもある。古代から道路は境界とされることが多かったが、境界は一旦設定されると変更しにくい性質を持っているため、1000年以上を経ても境界として残存するケースがある。例えば、鳥栖市・小郡市付近に見られる直線的な福岡・佐賀県境は、古代西海道駅路の痕跡である。所沢市と狭山市の境界を見ると、所沢側から細長く500mほど突き出た箇所があるが、古代の官道東山道武蔵路の痕跡だと見られている。明治初期の市町村境界には、古代道路の痕跡が多数残存していたとも言われている。

現代の地割に古代道路の痕跡が残っている場合もある。(例)大字界・字界が断続的に数km・数十kmにわたり直線形状となっているもの。駅路幅12mと同じく、地籍図に約12mの幅で地割が直線的に並ぶ事例。旧道が断続的に直線としてつながるケース。播磨平野の溜池に残る全く意味のない6m幅で直線の堤防。

また、条里地割から古代道路を推定する方法もある。条里地割は、約109m四方の正方形から構成されているが、10m~20mほどの余分が帯状に見つかることがあり、この帯状の余分が古代道路の痕跡と考えられる。帯状の余分を条里余剰帯という(道代(みちしろ)と呼ばれることもある)。条里余剰帯は全国各地の平野部に見られる。

空中写真により古代道路を探す方法もある。地図では検出できない微妙な痕跡が空中写真で判明することもある。直線的な何らかの痕跡が空中写真に残っていれば、古代道路である可能性がある。鳥取県内の古代山陰道は、丘陵部を直線的に通っているが、地図上では痕跡は見られず、空中写真によりそのことが判明した。富山平野西部の空中写真からも直線的な痕跡が見つかり、発掘調査により古代道路であることが裏付けられた。九州では衛星画像により九州縦貫自動車道と平行に走る古代の直線道路が発見されている。

路線の復元で最も確実な方法は、発掘調査である。発掘によって平行する道路側溝が発見されれば、古代道路であった可能性が非常に高い。国分寺市からは、約300mにわたって12m幅の道路遺構が発掘され、古代の東山道武蔵路だったことが判った。

路線の復元は、上記の方法を総合的に組み合わせて行われる。例えば、播磨国内の山陽道駅路は、地名や条里余剰帯、地割痕跡、発掘調査などからほぼ全てのルートが判明している。しかし、全国的に見れば、路線復元がほとんど進んでいない地域も多数あり、路線復元はまだ大きな研究課題として残っている。

研究略史
従前、日本の古代道路は、細々とした小径・けもの道だと考えられてきた。1970年に古代日本史研究者の岸俊男が、上ツ道・中ツ道・下ツ道などが直線的な計画道路であったことを発表し、古代道路の研究が一気に注目を集め始めた。1970年代には、多くの研究者が古代道路の調査研究に傾注し、直線的な計画道路が全国に及ぶこと、広い幅員を持つことなどが判明していった。1980年代後半には、全国的に古代道路の発掘調査が行われ、古代道路が考古学的な裏付けを持つとともに、その実態も明らかとなっていった。1990年代には、古代道路が直線的で大規模な計画道路だったことは常識となり、多くの地域で、郷土史の一環として古代道路の路線復元などが試みられるなど、詳細な研究結果が発表されていった。しかし、古代道路が古代日本の社会において、いかに位置づけられ、いかに変容していったかなど、新たな研究課題も浮上してきた。

2009年01月24日

装甲騎兵ボトムズ


ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ
『装甲騎兵ボトムズ』(そうこうきへいボトムズ)は、サンライズ制作のロボットアニメ(SFアニメ)。TVシリーズが1983年(昭和58年)4月1日から1984年(昭和59年)3月23日、テレビ東京系列で毎週金曜日(17:55 - 18:25)に放送された(全52話)。後日談やサブエピソードを描いた小説やOVA作品が現在も制作・発表されている。

高橋良輔が『太陽の牙ダグラム』(1981年 - 1983年)に引き続き手がけるTVアニメとして生まれた。

ダグラムで問題だった点としてサイズがある。ダグラムのサイズではコクピットから足元までの距離が遠い。そこで身長4mのロボットが制作側から提案され、スポンサーのタカラ側の承認を得た。もう一つの問題としてダグラムには顔がない点があげられた。解決策として制作側から「レンズ」が提案された。ザクのモノアイの発展である。これにはタカラ側から異論が出たが、玩具の試作で「レンズ」の回転ギミックが好評で受け入れられた。さらにタカラはダグラムでミリタリーに強い金型屋を押さえたため、複雑なデザイン造形が可能になった[1]。

一方で制作側がバトリングを中心に描く作品としたところ、タカラ側からは、よりミリタリー色を強めてほしいという要望が出された。

結果として両者の思惑はうまくシンクロ、劇中の人型兵器アーマード・トルーパー(AT)は「全高4メートル程度、主人公の乗る機体ですらも使い捨ての大量生産品」という、当時のリアルロボットアニメの中でも型破りのサイズ・設定となった。

1979年の『機動戦士ガンダム』に始まるサンライズのリアルロボット路線は本作で一つの頂点に達し、当時「リアルロボットアニメの最高峰」という評価が与えられた。現在でも本作を愛好するファンは多く、2005年に鍛造職人の倉田光吾郎が鉄素材で原寸大のスコープドッグ・ブルーティッシュ・カスタムを製作し、後に倉田本人にとっても予想外な「事後承認」の形でサンライズに公認されたというエピソードなどは、その象徴と言えるだろう。

一方、本作には様々なSF・冒険映画にあったシーンを巧みに翻案し(後述の「翻案元の作品」参照)、主人公キリコ及びパーフェクト・ソルジャーに超人的な性格を与えるなど、娯楽映画のダイジェストのようなエンターテインメントを狙った側面がある。全52話のTV放送を毛色の異なる4クール4ステージに分けたり、毎回のサブタイトルをシンプルな単語・熟語一つのみとするなど、小説のセンテンス的な作りも印象的であった。

過去の作品からの翻案部分の多さが批判されることもあるが、ファンの間では「これらはオリジナリティを損ねるものではなく、むしろ本作のアニメ史的な位置づけをユニークなものにしている」という肯定的な見方が強い。

ビデオ・DVDなどのパッケージ以外にも、UHF地方局やCS局でたびたび放送されており、ネット動画配信サービス(バンダイチャンネルなど)でも視聴可能である。

サンライズは『機動戦士ガンダム』などにおいて、自社製アニメのスタッフ以外の人間が他メディア(小説、漫画、雑誌やムックの記事など)で後付的に作成した非公式の設定については「映像化された時点で公式(オフィシャル)」という見解であるが、本作品の設定担当だった井上幸一は近年「ボトムズにオフィシャル設定無し」と発言している。

模型界でのポジションの概要
スポンサーとしては当初はタカラが提供していたため、同社から名作と呼ばれた1/24スコープドッグをはじめとする数々のATがプラキット化され多数流通したが、タカラのアニメ模型からの撤退により模型の金型はいくつかの模型社を転々とし、根強い人気にもかかわらずキットにプレミアがつくような時期が続き、ガレージキット化にも拍車がかかった。その中でプラキット界への進出を遂げたウェーブが、前述の1/24スケールキットに手を加えた「スコープドッグ・ターボカスタム」などを開発、好評を得た。そしてアニメキット界を事実上独走するバンダイが、傘下のエモーションレーベルからの作品DVD化とともに懸案のプラキット化権取得に成功、同社制作の初めてのOVA「ペールゼン・ファイルズ」登場のATを含む1/20スケールキットを発売、各社の開発競争に参入している。

スタッフ・キャスト概要
監督の高橋良輔、キャラクターデザインの塩山紀生、主人公の声を演じた郷田ほづみ、それぞれの代表作に挙げられることが通例である。特に劇団出身でコメディアンとしてTVデビューした郷田は、この作品がきっかけで本格的に俳優・声優としての道を歩き出したと言っても過言ではない。また各話担当作画監督の1人であったアニメアールの谷口守泰は本作での活躍が認められ、高橋監督作品『機甲界ガリアン』の中核スタッフを経て、やはり高橋が監督した『蒼き流星SPTレイズナー』においてキャラクターデザイナーに抜擢された。

「ボトムズ」という名称について
「ボトムズ」(VOTOMS)という名称は、ATの正式名称・Vertical One-man Tank for Offence & Maneuver(攻撃と機動のための直立一人乗り戦車)の複数形(-S)とされる(プラモデルの組立説明書の記述より)。

また同時に、スラング的な意味も持つ。脆弱な装甲、発火しやすいポリマーリンゲル液、コストを下げるため切り捨てられた機体の生存向上システム──人命よりも生産性を優先させたATはまさに“鉄の棺桶”とも言える代物だった。軍内部においても、搭乗者の生存率の低さから、AT乗り達は自らが乗り込むマシーンを自嘲気味に“ボトムズ=最低(bottom)の野郎ども”と呼ぶようになっており、そのため軍が“こじつけ”的ダブルミーニングを行ったと設定されている。

実際には「商標の関係で作品タイトルをBOTOMSにできなかった」という制作上の都合が名称(綴り)の理由である様だ。

TVシリーズ序盤、主人公のモノローグあるいは予告編のナレーションにおいて、ATを「ボトムズ」と呼称(それとともにATパイロットは「ボトムズ乗り」と呼称)する回が数回あったが、その後劇中でその名を聞くことはOVA『ペールゼン・ファイルズ』まで暫く無かった。

テレビシリーズ概要
テレビ版のストーリーは、治安警察と暴走族が牛耳る街「ウド」(第1話 - 第13話)、1960年代のベトナムやカンボジアを思わせる内戦地帯「クメン」(第14話 - 第27話)、砂漠の惑星「サンサ」(第29話 - 第39話)、キリコ出生の秘密が隠された惑星「クエント」(第41話 - 第52話)の4つのパートに分かれており、舞台が変わるごとに、市街戦・湿地戦・宇宙戦・砂漠戦など、様々なバリエーションの戦闘シーンを展開して楽しませる。

本放送中は放送時間枠などの問題もあり、平均視聴率は決して高いとはいえなかったが、AT・スコープドッグを始めとした玩具・プラモ関連のセールスが(前作ほどではなかったにせよ)好調であったため、打ち切られることなく4クールの放映を完了した。

シリーズ概要(TVシリーズ終了後)
TVシリーズで描かれなかった空白期や、過去の物語が3本のオリジナルビデオアニメ(OVA)としてリリースされ、好セールスを記録した。この人気を受け、外伝的作品『青の騎士ベルゼルガ物語』(小説)、『機甲猟兵メロウリンク』(OVA)が生まれた。さらに1994年には本編の32年後を舞台とする続編『装甲騎兵ボトムズ 赫奕たる異端』(OVA)がリリースされた。

2006年、模型雑誌で連載中の「装甲騎兵ボトムズ・コマンドフォークト」と連動したトークショーにおいて、高橋良輔監督によるボトムズ新作アニメを制作する事を発表、翌2007年2月のワンダーフェスティバル 2007では仮称題名を『装甲騎兵ボトムズ ペールゼン・ファイルズ』としキャラクターやATのビジュアルを公開、夏頃の作品開始を予定し進行中との情報が告知された。スタッフも当時のスタッフの殆どが集結している(一時WOWOWスクランブル枠での放送との噂も流れたが、OVAとして発売という形が取られておりTV放送は行わないようである)。OVAの『レッドショルダードキュメント 野望のルーツ』とテレビ本編の空白期間を舞台として描かれる。2009年1月17日には『ペールゼン・ファイルズ劇場版』の公開が予定されている。

また、2007年からは日経トレンディネットで、ペールゼン・ファイルズなどの制作現場やボトムズの次回作の構想を、高橋良輔が制作日誌的な小説にした「新・小説VOTOMSいちぶんの一」を連載中である。

この新アニメシリーズとは別に「日経エンタテインメント!」誌で高橋良輔が小説版ボトムズ・『孤影再び』を連載(「日経キャラクターズ!」誌からの移動)。『赫奕たる異端』の後の時代の物語で、第14回では、ペールゼン・ファイルズについて触れられており、メルキア情報相次官フェドク・ウオッカムの名が出てくる。

また、2008年にチャンピオンRED6月号より漫画『装甲騎兵ボトムズ CRIMSON EYES』(作画:杉村麦太 )が連載開始されている。こちらは主人公がボトムズ乗りの少女で、クエント人の女傭兵も登場する等(乗機は勿論ベルゼルガ)、ある意味前代未聞の異色作となっている。

同じように1980年代から長く続く『機動戦士ガンダム』や『超時空要塞マクロス』といったシリーズは、作品によってその都度主人公とメカ、それらが存在する時代や世界情勢などが目まぐるしく変わるため、ある意味で長期的な歴史の年代記のようなかたちになっているが、『ボトムズ』シリーズは百年戦争終結前後を軸に描かれており、作品間の時間軸が密接している。そのためどのシリーズも基本的にメカや設定などの世界観が一貫しており、32年後の『赫奕たる異端』においても大きな変化はない(ただし『青の騎士ベルゼルガ物語』の3・4巻の展開は、高橋良輔による正式な続編である『赫奕たる異端』とは全く設定が異なっており、パラレルワールドのような形になっている)。

そのなかで珍しい例としては、アストラギウス銀河の300年後の様子を描いた高橋良輔による小説『Equal ガネシス』(未単行本化)が存在する。ここではアーマードトルーパーは「ロボトライブ」と呼ばれるアンドロイド兵士に取って代わられている。

2009年01月17日

キャラクターを作品全体のキーパーソン

水野良は、リプレイである『ロードス島戦記』三部作を小説にするにあたり、第一部のプレイヤーが扱っていたキャラクターを作品全体のキーパーソンとして取り上げることにした。

かくして、第1部において血気にはやる果敢な戦士であった人間の若者パーンが主人公となり、紅一点であり、かつ冴えた知恵を見せていたエルフの女性ディードリットがヒロインの位置に就くことになった。

ストーリーは、ロードス島北東部アラニア王国領の寒村「ザクソン」において、村の周囲に出没する妖魔の脅威から村を守ろうとする二人の若者の冒険で幕を開ける。この一人が、勇敢な(この当時はまだ少々無謀で力不足な)剣士であるパーン。もう一人は彼の幼なじみで思慮深い神官エトである。

初めての冒険を、魔術師のスレインと寡黙で頼りになるドワーフの戦士ギムの助けによって成し遂げた二人は、この後、気まぐれな「帰らずの森」の女エルフのディードリット、抜け目がないが義理堅くもある盗賊ウッドチャックなどと出会い、結束して冒険を繰り広げていく。しかし、王国ヴァリスのフィアンナ王女誘拐事件に偶然遭遇したことを転機として、ロードス島の歴史を影から操る「灰色の魔女」カーラが彼らの前に立ちはだかり、また彼ら自身がロードス島の歴史に関与していくことになる。

あらすじ
暗黒皇帝ベルドに率いられたマーモ帝国軍と「至高神ファリス」[3]を奉じる神聖王国ヴァリスを中心とする国々との戦い(英雄戦争)を背景として進む。

アラニア王国出身の若き戦士パーンは、亡き父と同じ騎士になる夢を求めて5人の仲間と共に冒険の旅に出ていた。その途中、英雄戦争の狭間で暗躍する「灰色の魔女」カーラの陰謀(フィアンナ姫誘拐事件)に巻き込まれるも、フィアンナ姫の救出に成功し、自らの進むべき道を求めヴァリス王国に向かう。

そしてマーモ帝国とヴァリス王国の緊張が高まる中、カーラの考えがロードス島の平和と相容れないものであると悟ったパーンらは、六英雄の一人である大賢者ウォートに助力を求め、遂にカーラの居場所を突き止め魔女に挑むが
首都アラン、王城はストーン・ウェブ。ロードス島北東部に位置する。現存するロードス国家中では最古の歴史を誇り、千年王国(ミレニアム)と称せられる大国。

北西部でヴァリスとフレイム、南部でカノンと国境を接し、北部にマーファ大神殿やドワーフの「鉄の王国」がある。南西部国境には、近年まで通行不可能だった「帰らずの森」が広がっている。

精強な鉄網騎士団を擁し、更に騎士団以上と噂されるレンジャーで構成された遊撃隊と魔法戦士隊(銀蹄騎士団)を有する軍事大国でもある。

ロードス島唯一の魔術師ギルドである「賢者の学院」があり、安定した国情を背景に古くから古代語魔法の研究が盛んであったが、英雄戦争時の混乱の中で学院から破門されていたバグナードによって滅ぼされてしまった。

魔神戦争では神出鬼没の魔神に対して無為無策に終始し、逆に民衆を守るためにマーファ神官を中核に自然発生した自衛団と感情的に対立、大国病の深刻さを露呈した。

英雄戦争時では当初旧カノン国境を閉鎖して対マーモ包囲網の一角を担い、ノービス伯アモスンを援軍としてヴァリス王国に派遣した(ノービスはアラニア第二の都市、北西部の中心でヴァリス・フレイム方面への交通の要衝)。しかしマーモに唆された王弟ラスター公爵によって国王カドモス七世が暗殺されると状況は一変する。王都を中心に南部を支配して国王を僭称するラスター公と、急遽ヴァリスから戻ったノービス伯アモスン(王位継承権者)の間で泥沼の後継者争いが勃発する。(その為、英雄戦争には全く関与できない状態となる)
フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ


国外では英雄戦争が一応の結末を迎えた後もアラニアでは内戦は続き、争いの中心から外れた北部(パーンの出身地ザクソン村を含む)では両勢力から距離を置いた半独立的な自治組織が形成されるまでになった(この頃「北の賢者」と呼ばれるようになっていたスレインや、その弟子が関与していた)。

邪神戦争時にはラスター公が内戦で一旦は勝利を収め、アラニア経由で旧カノン領を目指す傭兵王カシュー率いるフレイム王国軍と戦う。邪神戦争後にノービス伯アモスンの子息がロペスII世(ノービス陥落後はフレイムに亡命しており、アラニア侵攻の大義名分となっていた)として即位。

ヴァリス
王都ロイド、至高神ファリスを奉じる神聖王国で、国民の大半がファリス信者。南部でカノン王国、東部でアラニア王国、北部でフレイム王国、西部でモスに接しており、文字通りロードス島の中心に位置している強国。

君主制ではあるが世襲は否定し、代々の国王は聖騎士団から選ばれることが慣例となっている(選出する際も、過去に王を輩出していない血統が好まれる)。「正義と秩序」の名の下に聖騎士団とファリス教団による果断(ある意味では独善的)な政策を取ることが多い。魔神戦争時には当時のワーレン王が狂気と病に倒れ、後継者が決まらない王不在という異常事態であり、ついに聖騎士団もファリス教団も有効な対策を取り得なかった。魔神戦争後は「六英雄」の一人で、聖騎士団を抜けて単独で「百の勇者」に加わった「白き騎士」ファーンが即位した。

英雄戦争では「英雄王」ファーンを戴き、対マーモ連合の盟主として「暗黒皇帝」ベルドのロードス島統一の前に立ちはだかる。最終決戦で辛くも勝利するが、ファーン王の戦死をはじめ国が傾くほどの大打撃を蒙った。

その後を継いだエト王は例外的に神官出身であるため「神官王」と呼ばれ、その治世下で国力の回復と旧領奪還に専念する。邪神戦争にも参戦したが、往年の国力にはまだ及ばず、また穏健なエト王の性格もあってフレイム主導の戦いに加勢する形となる。

宿敵であるロードス最大のファラリス教団との戦いとなったマーモ島での最終決戦では、暗黒神降臨などの苛烈な反撃に遭い聖騎士団の2/3と民兵の半数を失う大被害を蒙り、また暗黒神降臨の場にいて石化を免れたのはファリスの強い加護に守られたエト王ただ一人であった。

フレイム
英雄戦争の4年前にロードス島北部の砂漠地帯に建国された新興国。古代魔法王国時代から長年に渡って風の部族と炎の部族が対立を続けていた一帯で、フレイム王国は風の部族の支持を受けた傭兵出身のカシューが建国した。

英雄戦争には隣国ヴァリス王国からの要請に応じて参戦し、両雄の一騎打ちのあと勝ち残ったベルドをカシュー王が討ち果たすなど活躍を示した。

その後は敵対していた炎の部族を取り込み国内を統一、更にカノンやヴァリスからの難民流入で混乱していた南部の都市国家ローランやマーニーを吸収し、急速に国内の社会基盤を強化していった。

また肥沃な未開地「火竜の狩猟場」への入植に成功し、マーモ帝国のロードス本島侵攻以降、統治能力が低下していた自由貿易都市ライデンを保護下に加え、戦乱で疲弊した他国から強国として認知されるに至る。

しかも国土の大半を占めていた砂漠地帯は「炎の魔神事件」で精霊力が正常化したため徐々にかつての肥沃な土壌に戻りつつあり、難民入植地「火竜の狩猟場」の発展と合わせて国力の向上は尚も続いている。

果断で聡明なカシュー王の統治の下でロードス諸国の指導的立場を確立、邪神戦争では積極的に邪神阻止に動き、マーモ寄りのアラニア王国を突破してルードの街に向かう策を立てるも、長期の内戦により歴戦の騎士・戦士の揃ったアラニア軍に苦戦を強いられる。カシュー王の奮戦とウォートやフレーベの助勢で辛くもアラニアを下すも、長らく平和な時代を享受していたフレイム軍の被害は予想を遥かに越える物だった。

マーモ本島では各国の軍に先駆けて先陣を切る。闇の森での戦いでは召喚された「炎の精霊王」エフリートにより「砂漠の鷹」騎士団フォザル隊が全滅するなど、多大な犠牲を払いつつも、邪神戦争に勝利する。邪神戦争後、暗黒の島マーモを飛び地として統治、正常化に取り組むことになる。