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2009年03月 アーカイブ

2009年03月01日

アンフォーラ

アイノス
アパス
アンフォーラ
イロシャ
ウクタン
ウチク
ウビクンケ
エグレト
エパン
エルトン
オーロラ
オグーサ
オクル
オグルー
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

オジュン
オルラ
ギーゼラー
帰郷
クセルクセス
グラハト
グリーツ
クレストの星
コーンラ
サピスカヤ
サラロト
ジュングラ
スルフ
タウタ
ダシャル
タフン
医療惑星。
ダルショング
ダルナル
テルカレン
ドゥルハム
トラムプ
イルト族が住んでいたが、未知の種族が行った実験により核火災が発生し、恒星に突入して消滅した。グッキーの故郷。
ナエスドニク
ナ=ティル
ニュートン
ニュテット
ノウルセン
ノーホェア
アラスが基地を置いていた惑星。「銀河一の医療技術を持つ種族」の名を守るために、治療できない患者たちを島流しにしていた。
ノトリン
ハーサグ
ファルランド
ファロング
フォシル
プラツァ・デ・ブラヴォス
ベイネルト
ペムブローク
ボルジャレフ
ミュイ
メタ
メンツ・アルト・コルヴィシュ
モダル
モナースポイント
Ustrac
正式名称は、ユナイテッド・スターズ・トレーニング・センター。USO訓練センターがある。第185巻。
ラヴリー
ルートヴェルト
ルールス
レフォル
レヤン
ロアノケ
ロゲル
ワシュン
ダラク
ワホウィッチ
ワムプス
ワンダラー
精神知性体 "それ" が住む人工惑星。直径600メートルの皿状の大地をエネルギーバリアによって覆われ、"それ" の意志によって宇宙を自由に移動することができる。

実在する星団・星域
ヘルクレス座球状星団
別名M13。アルコン帝国の中心世界。第19巻。
恒星41=B=1847ArqH星系
サオス
星系4186-4-162
アルコン星系
アルコンI
アルコンII
アルコンIII
ナート
ナートル
ムトラル
ヴォガ星系
ツァリト
ケスナル星系
アラロン
アラスの本拠地。医療惑星。
ゲラ星系
ゲラル
ゴノム星系
ゴム
ラロス
スナルフ星系
スナルフォト
タトレル星系
ホヌル
フォルト星系
ソルテン
モーフ星系
モル星系
ラトン星系
ツグラン
ルスマ星系
アルヘツ
その他の惑星
ゴンツァ
シリコ
シリコV
スマト
オリオン渦状肢
太陽系帝国の主要星系のほとんどが存在する。
銀河中枢部
恒星六角形
「島の王たち」が建造した恒星転送機。6つのほぼ同じ大きさの恒星が正六角形に並んでいる。第100巻。
ブルーの星系
スフィンクス(ドロラー)
アコン帝国の首都星。
ラムセス
プレアデス星団
昴(すばる)のこと。散開星団。第100巻。
プレセペ星団

2009年03月16日

保元の乱、平治の乱

保元元年(1156年)の保元の乱では池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だったことから、清盛の立場は難しいものであったが一門の結束につとめ、後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。信西(藤原通憲)と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・経宗・惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝・源重成・源季実・源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握した。これにより、清盛は武家政権樹立の礎を築くにいたったのである。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

全盛期
清盛は二条天皇の乳父、室の時子は乳母となり天皇の後見役をつとめて検非違使別当・中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。応保元年(1161年)9月後白河上皇と平滋子の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠・教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・藤原信隆を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の皇居に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条天皇親政派の藤原経宗が帰京を許され、6月には時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・藤原基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)蓮華王院を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)重盛を参議に任じて平氏への依存を深めるが、7月28日崩御した。

後継者の六条天皇は幼少であり基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。9月、時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。永万2年(1166年)7月26日摂政・氏長者の基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・基房が摂政となる。基房は後白河上皇の近臣として信頼が厚く、基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば平氏にとって大打撃となる。清盛は藤原邦綱の助言により、殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から引退し、嫡子・重盛は仁安2年5月宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。
仁安3年(1168年)清盛は病に倒れ、出家する。原因は「寸白(すびゃく)」(寄生虫の病)だったとされる。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。病から回復した清盛は福原に別荘を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。嘉応元年(1169年)後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらざれば人にあらず」といわしめた。


2009年03月31日

稲妻雷五郎

稲妻雷五郎(いなづま らいごろう、享和2年(1802年) - 明治10年(1877年)3月29日)は大相撲の第7代横綱。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

人物 [編集]
常陸国阿波崎村(現茨城県稲敷市)出身。生年には寛政7年(1795年)説もある。本名は根本才助。身長188cm、体重145kg。

文政4年(1821年)2月幕下で槇ノ嶌の四股名で初土俵。同7年(1824年)10月、稲妻に改名し入幕すると、

7年10月 西前頭4枚目 7勝1預2休
8年1月 西小結 5勝2敗3休
8年10月 西小結 8勝1敗1休
9年1月 西関脇 6勝1敗1分2休
9年10月 西関脇 7勝1分1預1休
10年3月 西関脇 5勝2休
と好成績を続けて大関に上る。平幕1場所、小結2場所、関脇3場所での大関昇進は、看板大関でなく平幕から取っての実力大関としては、異例の早さだった。同じ雲州力士の先人雷電爲右エ門をもしのぐ。

文政11年(1828年)7月、京都五条家から横綱免許。これをめぐって吉田司家と五条家の間で紛糾したが、13年将軍徳川家斉の上覧相撲に際して阿武松緑之助とともに横綱土俵入りを披露する必要が生じ、吉田司家側が折れる形で決着。13年9月に司家免許も受けた。のち、引退後の安政6年(1859年)に神祇管領から「ゆうだすき」という白い麻綱を送られ、これも横綱の一種と解して三つの横綱免許を持つ唯一の力士とする見方もある。

阿武松とよく競いあって(稲妻の4勝5敗1分1預)、文政から天保の相撲人気を支えた。川柳に、

雷電と稲妻雲の抱えなり
稲妻はもう雷電になる下地
などと詠まれ、かつての雲州力士の強豪雷電と比較されるほどだったことがわかる。怪力で知られ、銭のたっぷり詰まった火鉢を片手で持ち上げ、煙管の火を着けるほどだったといわれる(エピソードの項参照)。生涯成績は、幕内通算25場所130勝13敗14分3預1無勝負73休、勝率9割9厘、優勝相当成績12回。古今十傑(谷風、小野川、雷電、稲妻、陣幕、梅ヶ谷(初代)、常陸山、太刀山、栃木山、双葉山)の一人とされる。

現役を引退後は雲州相撲頭取をつとめたが、藩財政緊縮の動きの中で大きな働きはなくて終わった。

また、力士の粗暴を戒め、精神の鍛錬を進めた「相撲訓」を著し、 「稲妻の去り行く空や秋の風」という辞世を残すほどの風流人であったといわれる。

タレントの山咲トオルは稲妻雷五郎の子孫(玄孫)である。

エピソード [編集]
あるとき青山の質屋が、普通の人では両手でも持ち上がらない唐金製の火鉢の底に天保銭10貫(100枚)を隠して埋めておいた。今日ばかりはいつものようにはいくまいという家人の視線をよそに、稲妻が火鉢を左手に取り、右手のキセルに火を吸い付ける様子は、普通人がタバコ盆を扱うのと変わりがなかった。その怪力に驚嘆した質屋は、その天保銭入り火鉢を稲妻に贈ったという。

五条家から横綱を許されたとき宮中に召され、仁孝天皇が御簾のうちからご覧になったが、頂戴した清酒4斗樽2駄(200kg)を両手に下げたまま静かに後ずさりして階を降りた。

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