稲妻雷五郎(いなづま らいごろう、享和2年(1802年) - 明治10年(1877年)3月29日)は大相撲の第7代横綱。
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人物 [編集]
常陸国阿波崎村(現茨城県稲敷市)出身。生年には寛政7年(1795年)説もある。本名は根本才助。身長188cm、体重145kg。
文政4年(1821年)2月幕下で槇ノ嶌の四股名で初土俵。同7年(1824年)10月、稲妻に改名し入幕すると、
7年10月 西前頭4枚目 7勝1預2休
8年1月 西小結 5勝2敗3休
8年10月 西小結 8勝1敗1休
9年1月 西関脇 6勝1敗1分2休
9年10月 西関脇 7勝1分1預1休
10年3月 西関脇 5勝2休
と好成績を続けて大関に上る。平幕1場所、小結2場所、関脇3場所での大関昇進は、看板大関でなく平幕から取っての実力大関としては、異例の早さだった。同じ雲州力士の先人雷電爲右エ門をもしのぐ。
文政11年(1828年)7月、京都五条家から横綱免許。これをめぐって吉田司家と五条家の間で紛糾したが、13年将軍徳川家斉の上覧相撲に際して阿武松緑之助とともに横綱土俵入りを披露する必要が生じ、吉田司家側が折れる形で決着。13年9月に司家免許も受けた。のち、引退後の安政6年(1859年)に神祇管領から「ゆうだすき」という白い麻綱を送られ、これも横綱の一種と解して三つの横綱免許を持つ唯一の力士とする見方もある。
阿武松とよく競いあって(稲妻の4勝5敗1分1預)、文政から天保の相撲人気を支えた。川柳に、
雷電と稲妻雲の抱えなり
稲妻はもう雷電になる下地
などと詠まれ、かつての雲州力士の強豪雷電と比較されるほどだったことがわかる。怪力で知られ、銭のたっぷり詰まった火鉢を片手で持ち上げ、煙管の火を着けるほどだったといわれる(エピソードの項参照)。生涯成績は、幕内通算25場所130勝13敗14分3預1無勝負73休、勝率9割9厘、優勝相当成績12回。古今十傑(谷風、小野川、雷電、稲妻、陣幕、梅ヶ谷(初代)、常陸山、太刀山、栃木山、双葉山)の一人とされる。
現役を引退後は雲州相撲頭取をつとめたが、藩財政緊縮の動きの中で大きな働きはなくて終わった。
また、力士の粗暴を戒め、精神の鍛錬を進めた「相撲訓」を著し、 「稲妻の去り行く空や秋の風」という辞世を残すほどの風流人であったといわれる。
タレントの山咲トオルは稲妻雷五郎の子孫(玄孫)である。
エピソード [編集]
あるとき青山の質屋が、普通の人では両手でも持ち上がらない唐金製の火鉢の底に天保銭10貫(100枚)を隠して埋めておいた。今日ばかりはいつものようにはいくまいという家人の視線をよそに、稲妻が火鉢を左手に取り、右手のキセルに火を吸い付ける様子は、普通人がタバコ盆を扱うのと変わりがなかった。その怪力に驚嘆した質屋は、その天保銭入り火鉢を稲妻に贈ったという。
五条家から横綱を許されたとき宮中に召され、仁孝天皇が御簾のうちからご覧になったが、頂戴した清酒4斗樽2駄(200kg)を両手に下げたまま静かに後ずさりして階を降りた。